世紀を越えて今年一月で101歳を迎えた1人のおばあさんがいる。彼女は幼いときから73歳まで、70年近くを毎日歩き通した。旅が人生だった。その距離は延べ地球を10周した計算になる。そして彼女は目が不自由だった。 凜とした姿ね、訳の分からない不思議な感覚にとらわれたっていうかね、日本海の吹き荒れた風景が目の前に展開するみたいな、彼女の語る風景とか、そういうものに、全部色を感じるんですよ。彼女はいわゆるほとんど生まれながらにして視覚を奪われた人ですからね、にもかかわらず、色を感じるっていうのは、いったいこれはどういうことかと。 そして、ハルさんの口から語られた、その瞽女人生は、驚くべきものだった。 なんぼ悲しい、泣くようなことでも、人に泣き言を言わねぇようにしたす。どんな苦しいことがあっても、どんな切ねぇことがあっても、人に苦しいふりは見せらんねいもの、切ねぇ、悲しいていうことは、決して人に見せてはならねぇというて、母親に小さい時から教えられて。 一曲一曲の瞽女歌には、旅に一生を送る瞽女の人生が込められていた。 関口 瞽女という言葉はねぇ、もう聞かなくなっちゃったでしょう。 戦前まだ日本各地に残っていた旅芝居の一座や見世物、角兵衛獅子など大道芸人たち、日本の伝統芸能を伝えてきた人々。その中で、ひときわ異彩を放つのが、三味線音楽を披露しながら回っていた瞽女たちだ。多くが目の不自由な女性だった。 瞽女さ来た、瞽女さ来た、って、この■はいんねぇからあどで 人々とのふれあいが瞽女たちの生きがいでもあり、瞽女歌という独特の芸能が伝わってきたのだ。ラジオやテレビが普及し、車社会が日常を奪うまでは。 親方が通ってきて、三味線の稽古が始まったのが7歳の時。親方が背中に回ってハルさんの小さな手を強く押さえ、糸道を辿らせる。細い指に糸が食い込み、たちまち血にまみれた。 寒くて寒くて切ねぇのに、あったかくなるほど音出さねばにゃぁ、土手に上がって川の方、向いて、そして杖にしっかりつかまって、■■、それでも我慢して、一生懸命になるとあったかくなる。 ハルさん9歳のとき、いよいよ旅に出る準備のため、初めて村の子どもと遊ぶことを許された。そして、それまで目が見えないのが当たり前だと思っていたハルさんが、初めて目の見えない自分を知ってしまう。花摘みをした時の事、おらは花をとってこれるんだが、色が分からなかった。ハル、この色は違うぞと言われても、また違う色の花をとってしまう。ハルは目が見えないからだと言われた。 こうしていよいよハルさんが親方に連れられて旅に出たのか9歳のとき。小さな体に自分の荷物だけでなく、親方の荷物まで持たされての旅立ちだった。■見送るとき、母親はこうハルに念を押した。一生人の厄介にならねばならないから、何かうまいもんがあっても、自分は食べないでまず人に食べてもらえ。そして祖父は、親方の言うことをよく聞いて、口答えしてはならねぇぞ、切ない時は神や仏にすがってな、誰もいなくたってちゃんと神様が見てなさる。 その後近くの村々を回っていたハルさんが、一度だけ母親に再会したのは、11歳のとき。しかし、そこは、病に伏した母親の臨終の枕元だった。 両親を失った小林ハルさん。11歳。 瞽女としての旅は当初ついていくのが精一杯だった。足にマメができて痛かろうが、辛かろうが、険しい山道を、谷の一本橋を、田のあぜ道を、ひたすら行く。 雪の季節は幾度も道から転がり落ち、命がけだ。 瞽女の世界は掟が厳しく、歌もよく歌えない新入りは、風邪を引いても休めない。三度のご飯にもロクにありつけない。親方はたとえご馳走を出されても遠慮しろと言う。 みんなの泊まり宿を探すのがハルさんの役目だったが、村によっては必ずしも歓迎されない。門付けを蔑まれ、子供たちに石を投げられることも再三。ハルさんたちが目が見えないのは、先祖の祟りだとはやし立て、しかし親方は、何をされても口答えしてはならないと言う。ハルさんがようやく宿を探しても、ハルさんだけが泊めてもらえないこともあった。 私はなりが小せぇから、宿に泊めてもらっても、おしっこたれたりすると悪いから、小せぇ子は泊めらんねぇと言われて、鬼浜■の中に置かれたり、桜の■、置かれたこともあったしね。 親方の言葉は絶対だ。言いつけができない、ハルさんは一人置き去りにされ、恐怖に震えながら一夜を明かしたこともあった。逃げようにも逃げられない。宿命に従うほか、ないのだ。 新潟、山形を中心に東へ西へ、一年の300日を旅から旅へ。雪の中を、花の季節を、ハルさんの10代の歳月は瞬く間に流れた。時代も明治から大正へ、日本の近代化を担った絹織物が一大産業になると、地方ではカイコを飼う養蚕が盛んになり、なぜか、瞽女はカイコに縁起がよいと言われ、来訪を歓迎する農家も増えた。人々の人情に触れる時は、ハルさんも歌っていて嬉しかった。新しい歌を覚えては一生懸命、歌った。めでたい歌、明るい民謡、悲しい物語。ハルさんの歌は次第にみんなから感心されるまでになっていった。 この間、ハルさんは、少女から娘へ、そして一人の女性へと成長。そしてその事件が起きる。共に旅する瞽女たちも、年頃になると微妙な感情が噴き出す。若く芸達者となった十九歳のハルさんに、姉弟子格の目が見える手引き役の女が嫉妬したとき、悲劇が生じた。 悲しみも喜びも、女性としての情念も、旅の空にただ捨てていくしかなかった。 昭和の時代が幕を開け、東京でモダンな男女が街を闊歩していたその頃、新潟のハルさんは26歳で年季奉公も明け、晴れて独立。収入も安定し、家を借り、弟子を取った。瞽女の世界では、親方と弟子は、親子も同じ。面倒を見れば、情もわく、互いに笑い合うときの嬉しさがある。しかもそんなとき思いがけない話が舞い込んだ。母親と死別した2歳の女の子を養子に貰ってほしいと言うのだ。ハルさんは喜んでその子を引き取った。 よしみという子の母親として、それはハルさんが初めて味わった幸せだった。ハルさんは、肌着から着物まで自分で仕立てて着せ、旅に出るときも背に負ぶっていった。そして一緒に抱いて寝ては、お乳の出ないおっぱいを含ませた。かあちゃん、そう呼ばれるときのなんとも言えない甘い気持ち。瞬間、ハルさんの脳裏を鋭く貫いたものがあった。母親の記憶だ。 これが実の母かと思うほど、厳しかった母。おらの生みの親は、目の見えない子どもを持って、どんげな苦しみしたやらと漸く分かった。自分の腹を痛めた子が失敗したら、憎い言葉をかけたい親がどこにあろうか。自分が死んだ後、全盲の子が一人生きていけるようにと、どれほど心を鬼にせねばならなかったことか。ハルさんは母が流していた涙の意味に初めて気づいた。自分は母に愛されていたんだ。 目が見えれば、こんな切ねぇ思いしなかったって、しみじみ自分で考えて心に泣くことはあったね。 子どもを病気で失った、小林ハルさん、28歳。おらは本当に涙がこぼれるようなことがあっても、涙隠してきた。泣いてしまったら歌になんねぇから。 日本が戦争へと転がって行った頃、ハルさん30代から40代。旅をねぐらの日々が続く。ところが親方として次々と弟子を引き受けることが、ハルさんに新たな苦難をもたらす。耳の聞こえない人や知的障害のある人を抱え、勢い、ハルさん一人が頑張ってしまう。 中には男に働かされる境遇の女を引き受け、ハルさんは長年、彼女に代わって、男に稼ぎを巻き上げられていたこともあった。しかし、ハルさんは、決して抵抗しない。 人の下になっていようと思えば、間違いない。働くということはハタを楽にさせること。目が見えない者が生きるには、人に与え尽くす、という、祖父と母の教えを信じるハルさんは苦労を自分から買ってしまうのだ。中でもハルさんが、呪文のように言い聞かせていたのが、いい人と歩けば祭り、悪い人と一緒は修行、難儀なときやるのが本当の仕事なんすけ。ハルさんにとって、生きることは歌うこと。そして修行だという思いが、ずっとあったのだ。 そして、日本は敗戦へ。終戦時、ハルさん、46歳。時代の波は、瞽女を世話してきた地主階級の没落、しかも、食料難と配給制のため、門付けでもらった米を闇米だと没収される始末。この時期、瞽女たちのほとんどが廃業を余儀なくされた。さらに、社会は復興期から高度経済成長へ。テレビも普及し、瞽女を受け入れるところも、めっきり減っていった。そんな昭和三十五年。ハルさんは、温泉場の出湯に腰を落ち着け、湯治客相手に細々と演奏。 もう今とは全然比較にならないくらいね、もうやせ細って、苦労に苦労を重ねて、流れ着いたと、非常に哀愁があるんですよね。その、瞽女歌に。ただまあ、住むところがないというんで、おんぼろのお家でしたけれども、そこでもいいって言うんで、そこに住んでもらうということになったんですけどね。 ここでの10年間、ハルさんは新たな養女の面倒を見た上、その娘に婿をとり、やがて孫まで誕生した。しかし、やっと家庭らしいものができたとハルさんが喜んだのも束の間、娘夫婦がハルさんの稼ぎを当てにするようになり、その癖、ハルさんを邪魔者扱いするありさま。しかし、自分が稼いだ金でみんなを養いながらも、ハルさんは自分の老後を彼らに面倒を見てもらうとは思っていなかった。働いて金さえ出せばそれでいい。神仏が見通しだから、なるようになる。ハルさんにとって神様とは、亡き両親や祖父でもあった。 時代は豊かさの極み。昭和元禄とまで呼ばれ、車社会が農村の隅々にまで及び、最後に残った瞽女たちが、命を託す道をも奪っていった。そんな昭和48年、ハルさんはその朝、近くの神社にお参りすると、石段に腰掛け、一曲奉納。 そして最後にこう言って手を合わせた。瞽女は今日でさよならです。 瞽女を廃業し、70年の旅を終えた、ハルさん、73歳。家も家財もすべて与え尽くし、一人向かったのは、老人ホームだった。 いま、もうボランティアがいて、パラリンピックまでやれるような、社会を我々いま作ってますけどね、この時代はそれがないもんですからね、おカイコが盛んになりますね、日本は、大正から、養蚕が、それとね、瞽女さんが持ってる、糸ですね、三味線の糸、それをおカイコさんの棚にね、括りつけると、カイコさんが元気になる、それぐらいね、瞽女さんはある意味では芸力を持っているとしてね、ある意味では巫女さんのような、そういう、尊敬もされていたというね。 働くということはハタを楽にさせることとか、なんか自己犠牲の上による、そういう考え方が、やっぱりできないですよね。 もはや人々の記憶からも消えてしまっていた、瞽女の存在。しかし皮肉なことに、ハルさんが瞽女に訣別しようとしたそのとき、ハルさんは言わば世間から発見されることになる。出湯温泉で門付けする、最後のハルさんの様子をテレビカメラが撮影していた。研究者たちは、戦後になって滅んでしまった幻の瞽女が生きていたことに驚いた。しかも、声にはいまだ張りがある。記憶も確かだ。 非常に記憶力の素晴らしい方です。芸能、習い方、あるいは、障害を押して歩かれた、その■吹雪の中で、生まれたもんだなというふうに感じましたね。自分の芸に対しですね、厳しい。 ハルさんはこの当時、一曲が数時間にも及ぶ長い演目も含め、500曲を記憶していた。地元教育委員会が保存のため回した録音テープだけでも40本、延べ80時間にものぼる。 社会のスポットを浴びたことで、宿命に生きてきたハルさんに思いがけない晩年が待っていた。 昭和52年、77歳になった小林ハルさんは、目の不自由なお年寄りのための、この、やすらぎの家に移り、終の棲家を得た。ここにはかつての瞽女仲間や弟子も入居してきて、久しぶりに再会。漸く穏やかな時間が約束されたはずだった。しかし、この翌年、運命は、ハルさんに再び三味線を取らせることになる。昭和53年、ハルさんは瞽女歌伝承者として、国の重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に選ばれたのだ。 ありがてぇことに国の宝にしてもらったんだもの、国の宝も駄目になったん。年が年だもの。 生きてみなきゃわかんね、ほんに思いがけねぇことばかり。 これをきっかけに、ハルさんの瞽女歌をぜひ聞きたいという声が一層高まり、ハルさんは新たな宿命に再び身を委ねていく。すると今度は、ハルさんに熱心に弟子入りを願い出る人まで現れた。 向こうの舞台の方から、一番後ろの席まで、なんていうのかね、ぴゃぁっていう感じで、体に向かって声が突き刺してくるような感じで来たんですよ、それが、わぁ何という声出す人だろうと思って、だけど、だんだんそれ聞いてるうちに、もしかしたらこれは息遣いかな、この人の生き様かなぁ、っていうふうに、この、歌こそがこの人の人生なんだなーっていうふうに思いました。 ハルさんは求められればどこへでも骨身を惜しまず出かけていった。こう笑いながら。 彼女の語る風景とか、そういうものに、全部色を感じるんですよ。考えてみたら、彼女、いわゆる、ほとんど生まれながらにして視覚を奪われた人ですからね、色彩概念なんてまずないはずなんですよね。にも関わらず、色を感ずるっていったいこりゃどういうことだ、と。結局、お前絵描きだからそういうふうに感ずるんだよ、って、そういうこととは違うんですよね。それは全然違うんですよね。色っていうものに対して、もう一回、考え直さなければいけないと、そのことをすごく教えられたんですね。 そんな昭和57年、思いがけない再会がやってくる。ハルさんは若くして家を出て以来代替わりした実家に近づくことは決してなかった。それが、周囲の勧めで、初めて里帰りし、両親の墓参が叶ったのだ。 ハルさんが霊前に捧げたのは、俗に、巡礼お鶴と言われ、別れた母親を探しに諸国を巡礼してきた少女お鶴の物語だった。はるか70年の時を越えての再会に、ハルさんはこう呟いた。おらのかあさんは二人いる。死んだ本当の母とおらの中に生きている母と。 そんなハルさんの施設での毎日も、常に亡き母親との対話であったかもしれない。いつも自分で身の始末をつけ、人にはわがままを言わず、居住まいを正し、手のかからないお年寄りで、一日一日を送ってきたのだ。 ありがとうございます。■に教えられ、母親に教えられ、それが、言われたことをみんな■、いまこんな幸せにして、■。 最後の瞽女、小林ハルさん。その一世紀は決して一人の旅ではなく、亡き父母や祖父と一緒に巡ってきた、遥かな人生の旅だった。 有馬さんいかがでしたか。 小林ハルさん、101歳になられます。 闇の宿命を光に変えてきた瞽女小林ハルさん。この世での厳しい旅を支えてこれたのも、こんな願いがあったからでした。 生きてる限り、全部修行だと思ってきましたが、今度生まれてくるときはたとえ虫になってもいい、目だけは明るい目をもらいたいの。小林ハル。 |
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