世紀を越えて今年一月で101歳を迎えた1人のおばあさんがいる。彼女は幼いときから73歳まで、70年近くを毎日歩き通した。旅が人生だった。その距離は延べ地球を10周した計算になる。そして彼女は目が不自由だった。
想像を絶する旅を支えたのは、この一竿の三味線だった。
小林ハルさん、彼女は最後の瞽女と呼ばれる。瞽女とは盲目の身で三味線で弾き歌いながら村々を巡った、女性の旅芸人たちのこと。いわば日本の吟遊詩人だ。
目の光を失ったハルさんは、5歳でこの道に入り、血の出るような修行を経て、新潟や山形の農山村を旅から旅へと巡り歩いた。実は、ハルさんの足跡が明らかになったのは、旅に終止符を打ってからの最近のこと。瞽女歌という伝統芸能、その力強さと魅力が人々に再認識され、国の重要無形文化財、いわゆる、人間国宝に選ばれてからだった。

凜とした姿ね、訳の分からない不思議な感覚にとらわれたっていうかね、日本海の吹き荒れた風景が目の前に展開するみたいな、彼女の語る風景とか、そういうものに、全部色を感じるんですよ。彼女はいわゆるほとんど生まれながらにして視覚を奪われた人ですからね、にもかかわらず、色を感じるっていうのは、いったいこれはどういうことかと。

そして、ハルさんの口から語られた、その瞽女人生は、驚くべきものだった。
光を失い、両親を失い、そして、育てた子どもまで失いながらも、ひたすら前へ前へと旅を続けた、ハルさん。

なんぼ悲しい、泣くようなことでも、人に泣き言を言わねぇようにしたす。どんな苦しいことがあっても、どんな切ねぇことがあっても、人に苦しいふりは見せらんねいもの、切ねぇ、悲しいていうことは、決して人に見せてはならねぇというて、母親に小さい時から教えられて。

一曲一曲の瞽女歌には、旅に一生を送る瞽女の人生が込められていた。
逆境の中でハルさんを支えたものは何だったのか。そして、漂白の宿命の果てに、心の目で見た光とは。

関口 瞽女という言葉はねぇ、もう聞かなくなっちゃったでしょう。
女性 私聞いたことありませんでした。
女性 瞽女の瞽の字、これはご覧になると分かるように、鼓という字から来ています。ハルさんは三味線でしたが、瞽女はもともと室町時代の頃より、鼓に合わせて語り歌っていた、目の不自由な女性を指していたと言われています。
関口 そうなんだぁ。●●さんは、この方にお会いになって、ずっとねぇ。
●● ええっ、目の見えない方、私思わず、居ずまいを正して正座しましたね。
関口 何がそうさせたんでしょう。
●● それぐらい品があって、綺麗で、かくしゃくとしていてね、歌うからっていうんで小林ハルさんが歌ったんですね。その声を聞いた途端に、こりゃなんだと思いましてね。ええとねぇ、綺麗な声とかなんとっかって、今も出ましたけど、そういうんじゃないんですね、もうびりびりーって鼓膜にまっすぐ突き刺さってくるような声なんですよねぇ、障子が震えるというか。
関口 ほぉ、これは、テレビだから、それがねぇ、どこまでみなさんに分かっていただけるか、ま、それ、一端はね、多分分かっていただけると思いますが。監督は瞽女を描いた映画をお作りになりましたよねぇ。
監督 もう二十五年前ぐらいですかね。水上勉さんの『はなれ瞽女おりん』っていう名作で、それ読んだとき、日本が滅びるってこういうことかと。瞽女さんが滅んでいくという、それがもう矢も楯もたまらず、越後高田に行きましてね、その人たちがね、もう目が見えないのに、家の中を自在に動くね、その姿ふるまいの鮮やかさっていうのに、びっくりしましてね、絶対これは映画にしなきゃいけないと、そう思ったんですね。
関口 へぇっ、そうですか。それを舞台のほうでおやりになったのが、有馬稲子さん。
有馬 16年間の間に600回、『はなれ瞽女おりん』を、全国それこそ2回ずつ回って、最後にイギリスまで行きましたから、ほんとに地球をさっきの話じゃないけど3回ぐらい歩いてんですよ。瞽女のお芝居で、その、『はなれ瞽女おりん』でね。でも、もう、ご本人、今のを拝見すると、もうとてもとてももう私なんかお見せできないと思うぐらいですね。
関口 ああ、そうですか。前もちょっと話が出てきましたけど、とにかく歩いて歩いて、でも、非常に狭いところなんですよね。
女性 そうなんですね。
関口 ここをもう歩いて歩いて。
女性 でも、とても険しい雪深い山岳地帯を歩いて歩いて回ったわけなんですけども。
関口 さて、■■、今日は■三味線をやってるんですよね。是非、ちょっと見てもらいたいなぁと思って。
男性 ちょっと舞台でやってみようかなと思って、ちょっと習ったんですけど。
有馬 難しいでしょ。
男性 難しいなんてもんじゃないですね。でもそれ一回津軽の三味線の音を聞いてから、ぼく絶対やろうって決めて、いまだに頑張って一応教えてもらってるんですけど。
関口 どんな魅力がありますか。
男性 なんでしょうね、ぼく初めて生で先生に弾いていただいて、全然東京出身なんですけど、なんか懐かしい気持ちと、でもリズムがすごく新しいというかロックのような、ええ、そういうふうに感じて、ぼくギターとかそういうの何にもできないんで、三味線とかちょっとやってみようかなというのがきっかけで。
関口 なんかやっぱり日本人の共通したものが若い人にもあるんだね、なんか響いてくるんだよね、何かがね。
男性 すごい感動したんですよ。
関口 ああ、そうですかぁ。その三味線来てるんですよ。これ、ハルさんの三味線。
口々に ああ、そうなんですかぁ。へぇ。
■■■■■

戦前まだ日本各地に残っていた旅芝居の一座や見世物、角兵衛獅子など大道芸人たち、日本の伝統芸能を伝えてきた人々。その中で、ひときわ異彩を放つのが、三味線音楽を披露しながら回っていた瞽女たちだ。多くが目の不自由な女性だった。
その歴史は室町時代にさかのぼると言われ、最後まで残った新潟県内には、戦前まで1000人近くいたと言われる。
娯楽の乏しい村人たちは彼女たちの訪問を待ち望んだ。民謡や端唄、流行歌、そして、よその土地の情報を運んでくるからだ。瞽女たちも村人の期待に応えるため、盲目という障害にめげず、奥深い山里まで足を運んだ。少し視力のある手引き役を先頭に、三、四人が一組となり、絣のキモノに手甲脚絆、菅笠、わらじや地下足袋を履き、杖を頼りに山道をやってきた。
村に入ると、瞽女宿と呼ばれる、昔から世話をしてくれた家に荷物を置き、三味線を弾きながら村の中を門付けして回り、人々はお金やお米を渡した。

瞽女さ来た、瞽女さ来た、って、この■はいんねぇからあどで
村■
涙出ることもあるしなあ、笑うようなこともあるしなあ、様々なことがあるで■

人々とのふれあいが瞽女たちの生きがいでもあり、瞽女歌という独特の芸能が伝わってきたのだ。ラジオやテレビが普及し、車社会が日常を奪うまでは。
ハルさんは、ちょうど1900年、明治33年、今の新潟県三条市の信濃川べりの農家で、四人兄弟の末娘として誕生。だが、生後まもなく、白内障にかかり、両眼の視力を失った。祖父は外聞が悪いからと幼いハルさんをいつも奥の寝間に置き、呼ばれるまで声出すんでねぇと教えられて育った。
父親はそんな末娘を不憫に思い、人目を盗んでは、ハルさんを抱いたり背負ったりしてくれたが、彼女が二歳のとき、病で世を去っている。母親はハルさんが物心つくと、厳しく裁縫を仕込んだ。古着をほどくことから始まり、針の糸通しを体で覚えさせるため、畳針からふとんの綴じ針、木綿針、絹針と、全盲の娘が一通りの縫い物ができるまで、泣こうがわめこうが容赦なく突き放した。ハルさんが容易に糸を通せるようになったのは、5ヶ月後のことだった。
もともと喘息で体が弱かった母親は、口癖の様に娘にこう言い聞かせた。
ハル、おらが死んだら、お前は一人で生きていかんならねぇ。辛いことあっても辛いと言うな。腹減ってもひもじいと泣いちゃならね。
そんな5歳のとき、祖父は村にやってくる瞽女の親方にハルさんを弟子にして仕込んでくれるように依頼。この瞬間ハルさんの生きて行く道が決定されてしまったと言える。20年の年季奉公だ。
以来、母親のしつけは一層厳しくなり、縫い物ができないと食事も与えず、身の始末や洗濯までみっちりたたき込んだ。
おっかなくておっかなくて、あんまりきつい母親だから本当におらのおっかさんだろうかと思った。

親方が通ってきて、三味線の稽古が始まったのが7歳の時。親方が背中に回ってハルさんの小さな手を強く押さえ、糸道を辿らせる。細い指に糸が食い込み、たちまち血にまみれた。
そして、寒越えと呼ばれる真冬の稽古。毎日早朝や夜、川の土手に薄着姿で立ち、絶叫するように歌い、声を潰すのだ。

寒くて寒くて切ねぇのに、あったかくなるほど音出さねばにゃぁ、土手に上がって川の方、向いて、そして杖にしっかりつかまって、■■、それでも我慢して、一生懸命になるとあったかくなる。

ハルさん9歳のとき、いよいよ旅に出る準備のため、初めて村の子どもと遊ぶことを許された。そして、それまで目が見えないのが当たり前だと思っていたハルさんが、初めて目の見えない自分を知ってしまう。花摘みをした時の事、おらは花をとってこれるんだが、色が分からなかった。ハル、この色は違うぞと言われても、また違う色の花をとってしまう。ハルは目が見えないからだと言われた。
ハルさんは家で目が見えないってどういうことかを尋ねた。母親は一瞬絶句すると、こうハルに説いて聞かせた。
人はみんな目が見えて、田んぼに出たり畑に出たりするん、お前は目が見えねぇでそれはやりきれねぇっす。人は大人になれば、みんなお嫁に行くども、お前は目が見えねぇからお嫁にも行がんねぇから、そいで三味線を覚えて一生瞽女になってこうして回って暮らさねばならねぇてことを泣きながら教えられた。
ハルさんは、鬼のように厳しかった母親が何故泣くのか、その時は分からなかった。

こうしていよいよハルさんが親方に連れられて旅に出たのか9歳のとき。小さな体に自分の荷物だけでなく、親方の荷物まで持たされての旅立ちだった。■見送るとき、母親はこうハルに念を押した。一生人の厄介にならねばならないから、何かうまいもんがあっても、自分は食べないでまず人に食べてもらえ。そして祖父は、親方の言うことをよく聞いて、口答えしてはならねぇぞ、切ない時は神や仏にすがってな、誰もいなくたってちゃんと神様が見てなさる。
ハルさんが親方から、母親が娘をいつまでも見送りながら身をよじって泣いていたことを聞いたのは後年のこと。

その後近くの村々を回っていたハルさんが、一度だけ母親に再会したのは、11歳のとき。しかし、そこは、病に伏した母親の臨終の枕元だった。

両親を失った小林ハルさん。11歳。

瞽女としての旅は当初ついていくのが精一杯だった。足にマメができて痛かろうが、辛かろうが、険しい山道を、谷の一本橋を、田のあぜ道を、ひたすら行く。

雪の季節は幾度も道から転がり落ち、命がけだ。

瞽女の世界は掟が厳しく、歌もよく歌えない新入りは、風邪を引いても休めない。三度のご飯にもロクにありつけない。親方はたとえご馳走を出されても遠慮しろと言う。

みんなの泊まり宿を探すのがハルさんの役目だったが、村によっては必ずしも歓迎されない。門付けを蔑まれ、子供たちに石を投げられることも再三。ハルさんたちが目が見えないのは、先祖の祟りだとはやし立て、しかし親方は、何をされても口答えしてはならないと言う。ハルさんがようやく宿を探しても、ハルさんだけが泊めてもらえないこともあった。

私はなりが小せぇから、宿に泊めてもらっても、おしっこたれたりすると悪いから、小せぇ子は泊めらんねぇと言われて、鬼浜■の中に置かれたり、桜の■、置かれたこともあったしね。

親方の言葉は絶対だ。言いつけができない、ハルさんは一人置き去りにされ、恐怖に震えながら一夜を明かしたこともあった。逃げようにも逃げられない。宿命に従うほか、ないのだ。

新潟、山形を中心に東へ西へ、一年の300日を旅から旅へ。雪の中を、花の季節を、ハルさんの10代の歳月は瞬く間に流れた。時代も明治から大正へ、日本の近代化を担った絹織物が一大産業になると、地方ではカイコを飼う養蚕が盛んになり、なぜか、瞽女はカイコに縁起がよいと言われ、来訪を歓迎する農家も増えた。人々の人情に触れる時は、ハルさんも歌っていて嬉しかった。新しい歌を覚えては一生懸命、歌った。めでたい歌、明るい民謡、悲しい物語。ハルさんの歌は次第にみんなから感心されるまでになっていった。

この間、ハルさんは、少女から娘へ、そして一人の女性へと成長。そしてその事件が起きる。共に旅する瞽女たちも、年頃になると微妙な感情が噴き出す。若く芸達者となった十九歳のハルさんに、姉弟子格の目が見える手引き役の女が嫉妬したとき、悲劇が生じた。
些細なことで逆上した女は、ハルさんを突き飛ばし、杖を振り下ろし、そして、体中を力任せに突いたのだ。治療した医師は、ハルさんに、子供が産めない体になったことを宣告した。

悲しみも喜びも、女性としての情念も、旅の空にただ捨てていくしかなかった。

昭和の時代が幕を開け、東京でモダンな男女が街を闊歩していたその頃、新潟のハルさんは26歳で年季奉公も明け、晴れて独立。収入も安定し、家を借り、弟子を取った。瞽女の世界では、親方と弟子は、親子も同じ。面倒を見れば、情もわく、互いに笑い合うときの嬉しさがある。しかもそんなとき思いがけない話が舞い込んだ。母親と死別した2歳の女の子を養子に貰ってほしいと言うのだ。ハルさんは喜んでその子を引き取った。

よしみという子の母親として、それはハルさんが初めて味わった幸せだった。ハルさんは、肌着から着物まで自分で仕立てて着せ、旅に出るときも背に負ぶっていった。そして一緒に抱いて寝ては、お乳の出ないおっぱいを含ませた。かあちゃん、そう呼ばれるときのなんとも言えない甘い気持ち。瞬間、ハルさんの脳裏を鋭く貫いたものがあった。母親の記憶だ。

これが実の母かと思うほど、厳しかった母。おらの生みの親は、目の見えない子どもを持って、どんげな苦しみしたやらと漸く分かった。自分の腹を痛めた子が失敗したら、憎い言葉をかけたい親がどこにあろうか。自分が死んだ後、全盲の子が一人生きていけるようにと、どれほど心を鬼にせねばならなかったことか。ハルさんは母が流していた涙の意味に初めて気づいた。自分は母に愛されていたんだ。
だが甘い生活は束の間だった。養母となって2年後、風邪をこじらせたよしみは、入院させたものの、既に時遅く、急性肺炎のため、ハルさんの胸に抱かれたまま、4歳の幼い命を閉じた。

目が見えれば、こんな切ねぇ思いしなかったって、しみじみ自分で考えて心に泣くことはあったね。

子どもを病気で失った、小林ハルさん、28歳。おらは本当に涙がこぼれるようなことがあっても、涙隠してきた。泣いてしまったら歌になんねぇから。
ハルさんがよく求められた演目『葛の葉子別れ』。浄瑠璃の名作だ。怪我をした狐が、助けてくれた男に恩返しするため、葛の葉姫に化けて尽くす。そして、生まれた子が5歳になったとき、本物の葛の葉姫がやってきて、狐が化けた姫は子どもと別れ、泣く泣く森へ帰って行く。養子のよしみを亡くしたハルさんにとって、辛い歌だった。ハルさんは、少女のように声を張り、感傷や技巧的なものを一切排除し歌い上げ、それが却って聞く人々の心を打っていく。

日本が戦争へと転がって行った頃、ハルさん30代から40代。旅をねぐらの日々が続く。ところが親方として次々と弟子を引き受けることが、ハルさんに新たな苦難をもたらす。耳の聞こえない人や知的障害のある人を抱え、勢い、ハルさん一人が頑張ってしまう。

中には男に働かされる境遇の女を引き受け、ハルさんは長年、彼女に代わって、男に稼ぎを巻き上げられていたこともあった。しかし、ハルさんは、決して抵抗しない。

人の下になっていようと思えば、間違いない。働くということはハタを楽にさせること。目が見えない者が生きるには、人に与え尽くす、という、祖父と母の教えを信じるハルさんは苦労を自分から買ってしまうのだ。中でもハルさんが、呪文のように言い聞かせていたのが、いい人と歩けば祭り、悪い人と一緒は修行、難儀なときやるのが本当の仕事なんすけ。ハルさんにとって、生きることは歌うこと。そして修行だという思いが、ずっとあったのだ。

そして、日本は敗戦へ。終戦時、ハルさん、46歳。時代の波は、瞽女を世話してきた地主階級の没落、しかも、食料難と配給制のため、門付けでもらった米を闇米だと没収される始末。この時期、瞽女たちのほとんどが廃業を余儀なくされた。さらに、社会は復興期から高度経済成長へ。テレビも普及し、瞽女を受け入れるところも、めっきり減っていった。そんな昭和三十五年。ハルさんは、温泉場の出湯に腰を落ち着け、湯治客相手に細々と演奏。

もう今とは全然比較にならないくらいね、もうやせ細って、苦労に苦労を重ねて、流れ着いたと、非常に哀愁があるんですよね。その、瞽女歌に。ただまあ、住むところがないというんで、おんぼろのお家でしたけれども、そこでもいいって言うんで、そこに住んでもらうということになったんですけどね。

ここでの10年間、ハルさんは新たな養女の面倒を見た上、その娘に婿をとり、やがて孫まで誕生した。しかし、やっと家庭らしいものができたとハルさんが喜んだのも束の間、娘夫婦がハルさんの稼ぎを当てにするようになり、その癖、ハルさんを邪魔者扱いするありさま。しかし、自分が稼いだ金でみんなを養いながらも、ハルさんは自分の老後を彼らに面倒を見てもらうとは思っていなかった。働いて金さえ出せばそれでいい。神仏が見通しだから、なるようになる。ハルさんにとって神様とは、亡き両親や祖父でもあった。

時代は豊かさの極み。昭和元禄とまで呼ばれ、車社会が農村の隅々にまで及び、最後に残った瞽女たちが、命を託す道をも奪っていった。そんな昭和48年、ハルさんはその朝、近くの神社にお参りすると、石段に腰掛け、一曲奉納。

そして最後にこう言って手を合わせた。瞽女は今日でさよならです。

瞽女を廃業し、70年の旅を終えた、ハルさん、73歳。家も家財もすべて与え尽くし、一人向かったのは、老人ホームだった。

いま、もうボランティアがいて、パラリンピックまでやれるような、社会を我々いま作ってますけどね、この時代はそれがないもんですからね、おカイコが盛んになりますね、日本は、大正から、養蚕が、それとね、瞽女さんが持ってる、糸ですね、三味線の糸、それをおカイコさんの棚にね、括りつけると、カイコさんが元気になる、それぐらいね、瞽女さんはある意味では芸力を持っているとしてね、ある意味では巫女さんのような、そういう、尊敬もされていたというね。

働くということはハタを楽にさせることとか、なんか自己犠牲の上による、そういう考え方が、やっぱりできないですよね。
今全然ないですよね、そういう風にはねぇ。もし何てね、言っても、あの、お母さんがえらいですね。彼女のお母さん。小さい時にものすごく厳しく育てるでしょ、すごくきついお母さんと思ったけど、それがあったからこそ彼女はね、最後までちゃんと、瞽女さんとしてね、全うできたんですよね、あんときお母さんが甘やかしてもういいよいいよなんて言ってたら、もう絶対なかったと思うんですよね。
この胎内■安らぎの家に、他に瞽女さんが入っている方■いるんですけど、その人たちが、こんなおばあちゃんみたいに、小林ハルさんみたいに、次から次から不幸が襲ってきた人を知らないって言ってますよ。それぐらいやっぱり次から次から引き受けちゃうっていうかね。さっきもありましたけど、あの、姉弟子に体を傷つけられて子どもが産めない体になっちゃうんですけど、その時もね、どうしたんだって言われても木の根っこで転んだとしか言わないんですよ。要するにすべてそういう風に自分に引き受けていくんですね。

もはや人々の記憶からも消えてしまっていた、瞽女の存在。しかし皮肉なことに、ハルさんが瞽女に訣別しようとしたそのとき、ハルさんは言わば世間から発見されることになる。出湯温泉で門付けする、最後のハルさんの様子をテレビカメラが撮影していた。研究者たちは、戦後になって滅んでしまった幻の瞽女が生きていたことに驚いた。しかも、声にはいまだ張りがある。記憶も確かだ。

非常に記憶力の素晴らしい方です。芸能、習い方、あるいは、障害を押して歩かれた、その■吹雪の中で、生まれたもんだなというふうに感じましたね。自分の芸に対しですね、厳しい。

ハルさんはこの当時、一曲が数時間にも及ぶ長い演目も含め、500曲を記憶していた。地元教育委員会が保存のため回した録音テープだけでも40本、延べ80時間にものぼる。

社会のスポットを浴びたことで、宿命に生きてきたハルさんに思いがけない晩年が待っていた。

昭和52年、77歳になった小林ハルさんは、目の不自由なお年寄りのための、この、やすらぎの家に移り、終の棲家を得た。ここにはかつての瞽女仲間や弟子も入居してきて、久しぶりに再会。漸く穏やかな時間が約束されたはずだった。しかし、この翌年、運命は、ハルさんに再び三味線を取らせることになる。昭和53年、ハルさんは瞽女歌伝承者として、国の重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に選ばれたのだ。

ありがてぇことに国の宝にしてもらったんだもの、国の宝も駄目になったん。年が年だもの。

生きてみなきゃわかんね、ほんに思いがけねぇことばかり。

これをきっかけに、ハルさんの瞽女歌をぜひ聞きたいという声が一層高まり、ハルさんは新たな宿命に再び身を委ねていく。すると今度は、ハルさんに熱心に弟子入りを願い出る人まで現れた。

向こうの舞台の方から、一番後ろの席まで、なんていうのかね、ぴゃぁっていう感じで、体に向かって声が突き刺してくるような感じで来たんですよ、それが、わぁ何という声出す人だろうと思って、だけど、だんだんそれ聞いてるうちに、もしかしたらこれは息遣いかな、この人の生き様かなぁ、っていうふうに、この、歌こそがこの人の人生なんだなーっていうふうに思いました。

ハルさんは求められればどこへでも骨身を惜しまず出かけていった。こう笑いながら。
瞽女と鶏は死ぬまで歌わねばなんね。
全盲の闇のはずの中から放たれた輝きが、人々を照らす。やがて芸の世界のみならず、ハルさんという一人の女性の生き方にまで目が向けられていく。

彼女の語る風景とか、そういうものに、全部色を感じるんですよ。考えてみたら、彼女、いわゆる、ほとんど生まれながらにして視覚を奪われた人ですからね、色彩概念なんてまずないはずなんですよね。にも関わらず、色を感ずるっていったいこりゃどういうことだ、と。結局、お前絵描きだからそういうふうに感ずるんだよ、って、そういうこととは違うんですよね。それは全然違うんですよね。色っていうものに対して、もう一回、考え直さなければいけないと、そのことをすごく教えられたんですね。

そんな昭和57年、思いがけない再会がやってくる。ハルさんは若くして家を出て以来代替わりした実家に近づくことは決してなかった。それが、周囲の勧めで、初めて里帰りし、両親の墓参が叶ったのだ。
ほら母さんの墓だよと手をとられ、触れたお墓。

ハルさんが霊前に捧げたのは、俗に、巡礼お鶴と言われ、別れた母親を探しに諸国を巡礼してきた少女お鶴の物語だった。はるか70年の時を越えての再会に、ハルさんはこう呟いた。おらのかあさんは二人いる。死んだ本当の母とおらの中に生きている母と。

そんなハルさんの施設での毎日も、常に亡き母親との対話であったかもしれない。いつも自分で身の始末をつけ、人にはわがままを言わず、居住まいを正し、手のかからないお年寄りで、一日一日を送ってきたのだ。

ありがとうございます。■に教えられ、母親に教えられ、それが、言われたことをみんな■、いまこんな幸せにして、■。

最後の瞽女、小林ハルさん。その一世紀は決して一人の旅ではなく、亡き父母や祖父と一緒に巡ってきた、遥かな人生の旅だった。

有馬さんいかがでしたか。
感動しました。
あっ、そうですか。
いやほんとに、これからまだね、もういっぺんだけわたしおりんをやりたいと思ってんですけど、これ拝見したら、ほんともっともっと勉強しなきゃいけないなと思いましたね。本物はすごい。偉い人ですね、この方は、偉い方ですね。
私ね、鋼の人って呼んでるんですけど、要するに鋼っていうのは叩かれれば叩かれるほど綺麗になるでしょ。あんな、普通だったら参っちゃうようなところを通ってきて、だんだん美しくなってきて、私、去年、100歳のお祝いの時ちらっと会ったんですよ。その時、美しかったけど、いま見たら、また、美しいですね。だんだん美しくなるっていうのが。
気品がありますね。
そうなんですねぇ。
すごい凜としたものが。
それでねぇ、私が思うのは、割合、男の方はね、瞽女さんというとロマンで描くってところ、あると思うんですけど、私が付き合った、この小林ハルさんは、そんなロマンなんてもんじゃなくて、ほんとに生活そのもの、生活、厳しい生活を突き抜けてきた、明るさとかね、それから、すごいものを持ってる人ですよね。いま1番私たちが、ないものじゃないでしょ。
日本人が失いかけちゃったものがね、しっかりあんのかなぁ。
日本の芸能ってのは、口承伝承って、口伝えでやってくわけですね。お能にしても、狂言にしても、歌舞伎ん中でも、口伝えで、それが、最近滅びかかってる浪花節に至るまで、口承芸術っていうのがあって、瞽女さんの伝承が途絶えそうになってるわけです。それがね何か現代の合理性の中でね、滅んでいくんで、私にとって映画を作るということは、失われていく日本を発見しようと最初にそういうふうに決意させたのはこの『はなれ瞽女おりん』だったんですね。
ああ、そうだったんですかぁ。さあ、他のお二人、みなさんのお話し聞いていて、どう思いますか。
見てるだけで汗出てきたり、体が熱くなったりとか、ほんと最後、今幸せですって、ねぇ、すごい良かったですね。報われたって言ったら変なんですけども、あれだけ厳しい人生を乗り越えられて、親がよかったのか、その中の積み重ねの中の経験の中で生み出してきたその強さなんでしょうけども、悪い人と歩けば修行と、言い放てる、あの強さに、そりゃ感服しました。苦労は買ってでもすべきだなって言うのを、ひしひしと感じました。
そうですねぇ、苦労は買ってでもしろって言われてもなかなか苦労を避けちゃう自分がいると思うんですけど、でも、なんでしょう、自分が生きていく上で信じてるものとかしっかりしたものさえ持ってれば、もちろんハルさんのようにはなれないにしても、大きく受け止められて、歪まずにまっすぐ生きられるのかなと思って、またハルさんの歌声を聞いてちょっと勝手にボクが思ったことは、力強い歌声を聞いて、喜怒哀楽、聞いてる人はその時どういう気持ちかで、歌声が全部違う風に聞こえるんじゃないのかなというのをすごく思って。
なんか、ついつい現状にね、不平不満を言いたくなってしまうのが人間だと思うんですけれども、控えめにでも前向きに生きるって事が大切なんだな、ってなんだかすごくそれを感じました。
勇気をもらえる。
ええ、ほんとに、今日はショックです。
ああ、そうですか。
すごく勉強になりました。
じゃあ、一番最近の姿と声をもう一度みなさんに見ていただきましょう。

小林ハルさん、101歳になられます。
どうも、101歳の誕生日おめでとうございます。
ありがとうございます。
これからも元気で過ごしていただきましょう。
はい、また、お願いします。

闇の宿命を光に変えてきた瞽女小林ハルさん。この世での厳しい旅を支えてこれたのも、こんな願いがあったからでした。

生きてる限り、全部修行だと思ってきましたが、今度生まれてくるときはたとえ虫になってもいい、目だけは明るい目をもらいたいの。小林ハル。