津軽三味線の誕生-民俗芸能の生成と隆盛

・「津軽三味線碑」の建立
 昭和六三年、(戊辰)七月三十一日、北津軽金木町の賽の河原河鞍地蔵尊境内に、「津軽三味線碑」が建立され、入魂式が行なわれた。昭和五一年に上梓された『金木郷土史』の編纂委員長白川兼五郎氏の自費によるものである。塚は横巾五尺、縦三尺七寸の御影石で、ありふれたものであった。また、平成五年五月三日、金木町神原の神田橋の袂に「津軽三味線始祖、仁太坊之里」という詩碑が建立された。
 塚の選文をし、また史碑の揮毫をした私は一生の重荷をここに下ろした思いであった。津軽三味線の生みの親であり、津軽三味線の基礎を築いた最大の功労者であったのに、その功労を誰からも認められずに世を去った、仁太坊という一人の盲目の門付け芸人の名誉を回復することができたからである。
  昭和三(一九二ハ)年、つまり、六○余年前の戊辰の深秋、金木町神原(かんばら)の神田橋下の掘っ立て小屋で、一人の坊様(ぼさま)が妻に看取られて他界した。七一歳であった。坊様とは男盲の門付け芸人のことで、悲しいことだが、津軽ではホイド(乞食)という蔑称でも呼ばれていた。この坊様の呼び名を通称神原の仁太坊といった。仁太坊は、神原の村人の手によって岩木河原の墓地に埋葬された。土葬であった。
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金木町賽の河原、川倉地蔵尊境内に建立された「津軽三味線塚」
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津軽三味線の始祖 「仁太坊之里」、後方の神田橋は、かつて渡し場であった。